東日本大震災から5年の節目を迎えましたが、宮城県では平成23年度から平成32年度までの10年間で復興を達成するとの目標を定め,この10年間における復興の道筋を示す「宮城県震災復興計画」を策定しており、本年(平成28年は、第二フェーズである「再生期」としています。
今回は、今年1月の訪問取材に続く第二弾として、3月15日・16日の両日、(一社)宮城県社会福祉士会、その他仙南エリア医療機関従事者の方に、街の復興状況などについてお話を伺って参りました。
□第一部:宮城県社会福祉士会西澤常任理事インタビュー
□第二部:仙南エリア医療従事者の方インタビュー
□第三部:全日本不動産協会宮城県本部・復興支援特別委員会主催 被災地視察~慰霊の会参加取材記録
【リンク】昨年宮城県社会福祉士会西澤常任理事にお話を伺った際の模様
□第一部
■ 宮城県が取組む災害福祉広域支援(福祉版DMAT)
DMATとは、厚生労働省・日本DMAT事務局によると「災害急性期に活動できる機動性を持った トレーニングを受けた医療チーム」と定義されており、阪神・淡路大震災の経験を踏まえ、避けられた災害死をなくすべく、厚生労働省により災害医療派遣チーム日本DMATが平成17年に結成されました。
宮城県でも、DMAT組織及び平時からの訓練体制が整備されていますが、本格的な災害福祉広域支援ネットワーク構築を目指し、県知事直轄の下、災害福祉版DMAT本部を平成28年度内に置くことを目指しているとのことです。
災害福祉版DMATは、1チーム4名からなる多職種連携のユニットを想定しており、社会福祉士は、主に災害発生時ニーズの棲み分け(スクリーニング)や避難所の運営機関と被災者が抱える個別ニーズを調整する役割(環境への働き掛け)などが期待されています。
これらチームでの災害支援を有機的に実行していくためには、①平時からチーム間(多職種間)でコミュニケーションを取る②災害発生時にメンバーが動けるような体制(本人の勤務先・所属元の事業への理解)、これらが不可欠だと教えて頂きました。
■ (一社)宮城県社会福祉士会が進める災害復興支援
宮城県社会福祉士会では、震災が発生した2011年より宮城県の委託を受けて「宮城県サポートセンター支援事務所(被災者支援のサポーターや運営機関を支援する事業)」の運営を継続していますが、この事業を継続・強化することが大きなテーマひとつに置いております。具体的には、生活支援コーディネーターの人材増強と人材育成としての研修活動の強化(宮城県被災者支援従事者研修)を挙げています。この研修会に総勢200名の大所帯で参加された地域もあるということです。
地域の生活支援コーディネーターは、専門職の従事者に拘るものではなく、地域を知り熱意ある方に育って頂きたいと語って頂きました。
(今回お話を伺った近くの仙台市役所本庁舎/合同会議の後お話を伺いました)
□第二部
■ 医療機関が体験した震災
続いて、今回ご縁ありまして、仙南地域(宮城県中南部)の医療機関の方に震災発生時の状況及び、その体験・教訓が今どのように活かされているか等について、お話を伺って参りました。
詳しい内容は省略しますが、医療機関の概要は沿岸部からも遠くない立地の病院で、80名以上の入所施設を併設しております。現在でも震災を乗り越え元気に運営しております。
震災発生当日は、地域の医療機関で症例研究発表会があり、そこから帰院して間もなく被災したそうです。職員・外来患者なども多数在院していましたが、先ず入所者(高齢者)の安否確認に奔走し、入所者の無事は確認でき一安心したつかの間、「医療機関に行けば何とかなるだろう」との思いから、近隣だけでなく遠方からの被災者・被災患者が徒歩や自家用車などで駆け付け殺到したそうです。
また、日頃から災害医療支援などを専門とする医療機関ではないため、下記のような様々な難題が立ちはだかったと伺いました。
●入所者用の緊急対策として食事は3日確保していたが、来院者(職員含む)の食事がない。
●厨房機器が壊滅していたので、食材があっても調理ができない。
●医薬品の消失。
●給排水設備の壊滅等による飲料水の欠如及び排水設備の故障。
●電気設備の壊滅による電気の不通及び医療機器の損壊。
●エレベーターの故障。
●医療・日用生活物資輸送のための車とガソリンの不足。
結局、来院した外来患者は医師が一階のホールで応急処置をした後人力で上階に運び、薬剤は手分けして近隣の取引先に掛け合い調達、食料も手分けして何とかカップ面調達し、それらを調理するために大なべとカセットコンロを調達して、エレベーターが使えないため人海戦術で2・3階に入所している方々に食料を提供したとの事です。また玄関先では、調理用と暖房用で焚き火をしてしのぎましたが、その間職員の方々は患者優先の為2・3日食事できなかったそうです。
この他応急処置が必要な患者は、リハビリ室に運び込み「これが野戦病院の光景なのか…」と感じたそうです。
職員の方の家族の安否確認は、業務がひと段落した翌日以降に行いましたが、沿岸地域が自宅方も多く、家族に死亡者いた方も多数いたとの事です。
その他、匿名の集団が震災後直ぐ支援物資をトラックに載せて、医療機関含めた近隣居住の方々に配布した事例や、同じく米軍のヘリコプターが近隣医療機関あてに飛来し、「ここは病院か?もし困った事があったら何でも言ってきてくれ。」との事例(たまたま留学経験がある医師が所属しており、その方が通訳された。)も実際にあったそうです。
■ 震災体験を経て、災害発生に備えておくべきことと学んだこと。
今回の経験を踏まえ、お話頂いた医療機関の方は「①当座数日分程度の飲料水と食料②簡易でも排水・排泄設備」が最も必要だと学んだと語ってくれました。
医療機関であれば、飲料水は業務にも必要と言うことがあると考えられます。その他、物資搬送車に必要なガソリンなどが必要な事も、よく耳にします。
また、災害時でも活きた水場の情報を知っていれば良かったと痛感した経験から、現在では町内会で情報を得るため、以前より町内会活動に積極参加・活動する様になったそうです。やはり、日頃からのコミュニケーションが大切だということも語ってくれました。
(昨年12月に開通した仙台市営地下鉄東西線「八木山動物公園駅」の模様)
□第三部
■ 第3回被災地視察・復興支援・慰霊の会に参加して
こちらが今回最後の記事となります。
前回訪問取材で伺いました、(公社)全日本不動産協会宮城県本部の皆様からのご支援で、今回初めて、慰霊の会に参加させて頂きました。
この慰霊の会は、宮城県本部の復興支援特別委員会が主催している公益事業です。タイトルの通り、現状を見て復興を支援する事が理念の事業ではありますが、復興への道のりは簡単ではない事を今回学んで参りました。その想いは、各小地域で建立された慰霊碑・塔を巡り、亡くなった方々の気持ちに寄添う事で強く感じました。亘理町・名取市の各慰霊碑では一同で献花(小林本部長による)させて頂きました。
その中の一つであり亘理町荒浜地区にある「鎮魂の碑(荒浜地区まちづくり協議会建立)」には、次のような言葉が記されていました。
『平成二十三年三月十一日の東日本大震災により瞬時にして荒廃の町と化した、その痛ましい記録を刻み犠牲になられた人たちの御霊をお慰めするとともに、わが町民の後世への教訓とし、ここに建立する。 平成二十五年癸巳年二月』
(現在も荒浜地区を見守る観音様)
(今月廃校が決まった荒浜小学校は震災遺構としての保存が検討されています)
(亘理町荒浜地区にある「鎮魂の碑」)
(現在の福島県双葉郡双葉町牛踏交差点付近/町役場は現在いわき市にあります)
□おわりに
前回取材記事でご紹介した、宮城県石巻市では市立病院が今年の9月にようやく開院します。震災後5年を経過していますが、まさに「ようやく復興への第一歩」が踏み出されたに過ぎません。今後も、まだまだ復興へは沢山の活動が必要です。
形を変えつつも街を昔の風景に戻していくのか、或いは全く新しい街として生まれ変わって行くのか、地域によって結論には違いがあると思われます。
今後も皆さんの想いに寄添える様、小さいながらも支援を続けていければ幸いです。
(文責:広報委員会)